「集まれない」世界の中で -文化的に死なないために-

2020年3月現在、新型コロナウイルス感染症は、世界の多くの場所で大人数でひとつの空間に集まることができない状況を作り出している。(一般的には飛沫感染や接触感染で感染するとされ、空気感染は起きないと考えられているが、閉鎖した空間で近距離で多くの人と会話するなどの環境では、咳やくしゃみなどがなくても感染を拡大させるリスクがあるとされているのがその理由だ。)(厚生労働省より)

「集まる」という行為は、人が生きる上で重要な行いだ。
気心知れた友人と集い喋ること、家族や共同体で同じ食卓を囲むこと、同じ教室で共に授業を受けること、同じ職場で共にそれぞれの仕事をすること。ある展覧会のために共にひとつの展示室に入ること、ある演目を共に劇場で鑑賞すること。それらが満足にできなくなってしまった状況で、私たちは多くの問題に直面している。

しかし、集まることを仕方なく諦めるわけでも、感染のリスクを犠牲に集まるわけでもない、その間にあり得る柔軟な選択肢を考えることができれば、少しは世界に希望を持てるのではないか。というわけで、作品の展示(上映)、演劇の上演、飲食の営業、イベント(歌会)といったそれぞれの分野で「集まれない」この状況を、少しでも臨機応変に生き抜いていくためのやり方を実践している人たちに、ビデオ通話で話を聞いてみることにした。

目次

家でみる映像祭 《揺動PROJECTS 01 オンライン映像祭「Films From Nowhere」》

http://kannaibunko.com/event/937
https://vimeo.com/ondemand/filmsfromnowhere/

規模の大小に関わらず、多くの展示や上映会が中止や延期といった選択をとっているし、そうじゃないにしても、様々な感染対策を講じる必要が生まれている。

それ以前の状況では気軽にできていた「行きたい展示に行く」「観たい作品を観に行く」ということができなくなって(中止になってしまった展示はもう行きようがない)、会期中であればいつでもそこに行って何不自由なく作品を鑑賞することができるということがどれだけ貴重なものだったのかを痛感している。
しかしこんな状況だからこそ、「作品を普通に観られる場所」を何か別の形で模索している人たちもいる。

《揺動PROJECTS 01 オンライン映像祭「Films From Nowhere」》はインターネット上で鑑賞できる映像祭だ。
新型コロナウイルスの拡大による文化事業・教育等への影響を受け、佐々木友輔氏、荒木悠氏が中心となり、横浜のオルタナティブスペース・関内文庫と共同で発足した。動画プラットフォーム「Vimeo」上で開催しており、鑑賞者は、72時間有効のチケットを購入することで合計9名の映像作家の作品を見ることができる。会期は3/9(月)から3/29(日)まで。

◎話を聞いた人
 佐々木友輔さん(映像作家)

http://qspds996.com/sasakiyusuke/

感染拡大、文化事業の自粛から「映像祭」の開催へ

始まりは、新型コロナウイルス拡大に対する対策がどんどん後手後手に回って、感染症自体の脅威以外の影響で右往左往させられている部分が大きいな、と感じたころです。オリンピックやスポーツに関わるイベントは通常通り行われるけれども、芸術や文化に関わるイベントに関してはどんどん自粛が求められているという現実。ある種の格差、扱いの違いというのがとても気になっていました。それが一つのきっかけですね。

映像メディアと配信のありかた

映像というメディアは一般に配信がやりやすいように思われるかもしれないのですが……。自分も2010年代初頭ぐらいには、インターネットの環境と新しい映画の可能性を考えて、映像の配信を試したりしていました。ただ当時の感触としては、思ったようにいかなかった。その後にyoutuber等も出てきて、やはりネットで盛り上がる映像と、いわゆる映画館で観る映像との根本的な形式の違いを痛感したんです。だから近年は、自作をインターネットで配信することには慎重になっていました。
けれど、今回の新型コロナウイルスの影響で、ある意味強制的に家に閉じ込められてしまうという状況、イベント自体が無くなり家の中で何かを見るしかないという状況になって、この状況であれば逆に、ネットでも黙々と作品と向き合う時間が持てるのかもしれないな、と思いました。

今回僕が声をかけた作家さんの映像も、どちらかというと映画館や展覧会で観たいタイプで、もともとはあまりネット配信に向いてなさそうだと思っていたところがあるんです。それでも、視聴期間を三日間にするという制約を設けることで、鑑賞者が家の中で画面と向き合う時間を作れるのではないか。この「映像祭」が外のイベントでの鑑賞や、劇場に足を運ぶ代わりになればいいな、と。そういうちょっと反動的なことをやっているなという意識があります。

それから、今無料配信を多くの団体がやっていることに危機感を覚えています。あくまで場所が変わっただけで、それを観る対価というのはちゃんと受け取ってもいいはずです。なので、あくまで「映像祭」であり、作品に対して一定のお金を支払ってもらう、という形式でやりたいと最初から思っていました。場所が現実空間からWEB空間に変わっただけで、通しチケットで1000円払っていただき、好きなプログラムを見ることが出来る、という形を守りたかった。今のインターネットの、無料で映像をシェアしていく流れと逆行したことをやってみよう、という気持ちが強かったですね。

鳥取の自主上映団体からの刺激

鳥取県に拠点を移してからは、鳥取の自主上映団体へのインタビューを作品にしています。それが《映画愛の現在》というタイトル。
鳥取って県内に映画館が3館しかないんです。シネコンまで行こうとすると、片道1時間半掛けて車で行かないといけない。そういった環境でも、いろんな人達が、ちゃんと版権も交渉してお金を払って、自主上映会を企画しています。勿論、東京でも自主上映会はあると思いますが、鳥取では誰かが自主上映をやらないと、映画文化自体がなくなってしまいかねない。そういう状況下で、ある意味ゲリラ的に活動してる人たちがいて、その人たちに励まされたというのがあります。このしぶとさを見習いたいな、というか。とにかく作品を見れる環境を繋いでいく、というのが大事なんだなと強く思いました。
今回も、今の状況に対してトリッキーなことをやってみるような意識はあまりなくて、普通に作品が見れる場所を作りたい、というのが僕としては大事なところでした。束の間でもウイルスのことを気にせずに、作品を普通に観られる場所を開きたかった。作品と向き合うための時間をどうやって作るかということを、鳥取の自主上映会の人たちから学んで、触発されて、やってみようと思ったんです。

いろんな場所を渡り歩いて文化を生き延びさせなきゃならない

今回の映像祭のタイトルには、「Nowhere」、「どこでもない場所」という名前をつけています。ウィリアム・モリスの『ユートピアだより』の原題が、“News from Nowhere”なのですが、つまり「どこでもない場所からの便り」。ユートピアはまさに、「どこでもない場所」。
今回はインターネットという場所を使ったけれども、現実空間、鳥取、東京、いろんな場所を渡り歩いて文化を生き延びさせなきゃならない。とにかく動ける人が動いて、作品が観られる場所を開いていって、どうにか次代に繋いでいく、というのが今一番大事なのではと考えています。

ものが来て、ものが見て、ものが帰る演劇『インテリア』

https://www.fukuihirotaka.com/200304

『インテリア』 2020年3月12日[木]〜15日[日] THEATRE E9 KYOTO

『インテリア』は、ものと来て、ものと鑑賞し、ものと一緒に帰る形式の演劇作品だ。
出演者と観客は、普段生活している部屋にある「インテリア」を一つずつ劇場に持ち寄り、それらを上演空間に再配置することから上演が始まる。

新型コロナウイルス感染症の影響で多くの劇団が難しい判断を迫られている中、3月12日から3月15日の会期で予定されていた『インテリア』京都公演は、観客間の距離を一定に保つことや飛沫感染のおそれがある演出を排除した形で上演を行った。
加えて、13日19時半開演の回のみ、「ものだけの来場・観劇」を受け付けることが発表された。

◎話を聞いた人
 福井裕孝さん(演出家)

https://www.fukuihirotaka.com/

集まることについて再考する

新型コロナウイルスの流行が始まったあたりから公演中止は視野に入れていました。

ですが、今回の公演に関しては、規模も小さく、京都はまだ表沙汰になってる感染者数は 首都圏に比べて多くなかった。現実的な状況を色々と鑑みて、感情的な判断はせず、できる限りの対策はした上で決行する方向で進めようということになりました。

ただ、劇場をはじめとして、人が集まる場所はどこも「入り口にアルコール置きます」とか「ちゃんと換気をします」みたいな対策は取るけど、一方でその対策に実際どのくらい効果があるのかよくわからないという現実的な見方もあって。もちろん取れるだけの対策は取るべきなんですが、人が集まれないという状況に対して、作品の延長線上で何か別のリアクションができないか、と政府の会見があった2月26日あたりから本格的に考え始めました。

『インテリア』がもともと「ものと来て、ものと見て、ものと帰る」という形式の作品だったのもあって、それと地続きの形で「人が集まれないならものだけが集まればいい」と発想し、「ものだけの来場」を受け付ける回を設けることに決めました。

ものの送料はお客さん負担で、家から劇場までの距離だったり、もののサイズや重さによって値段は変わります。そういうふうに「集まるための移動距離をお金に換算して払う」行為をお客さんに担ってもらうことが、チケットを買うことに代わる「劇の上演に参加する」形として機能するんじゃないかと考えています。

インテリア 京都公演より 撮影:中谷利明

正解はない

制作者である私たちにとって、作品の上演は「不要不急の集まり」ではありません。

お客さんにとっても、わざわざお金を払って予約してくれているわけですから「不要」ではないと信じていますが、「不急」の基準は人によって違うだろうし、少なくとも制作サイドの私たちと同じでないことは確かです。

僕は、あまりネガティブな意味ではないんですが、芸術とか表現とか、そういう体験が、心を豊かにすることはあるかもしれないけれど、自分のやっていることはそんな崇高な仕事ではないと思っていて。

あくまで我々としてはやりたいし、今やる必然性があると思っている。その姿勢に変わりないですが、こういった状況下で本当に集まるべきなのかと言われると、正直今でも悩んでいます。

ものを運ぶ人がいること

「ものが来る演劇」と言っていますが、正確に言えば、人が「ものを送る」で、今回で言えばものを部屋から劇場まで運ぶ配送業者がいるわけですよね。インターネット上ではつながったり集まったりする過程が見えない。ものを送るにしても荷物を業者に手渡してしまえばそこから先の移動は見えないわけですけど、そこに想像力を働かせて欲しいと思っています。

人の代わりにものが集まる。でも当然ものが勝手に集まることはできなくて、そこにはものを集めてくれる人がいる。そういう集まることのアナログさに気づいてもらいたいなと思っています。

飲食店の収益構造を変えるwebサービス「Ticketime」

https://ticketime.jp/

新型コロナウイルスの影響で飲食店も大きなダメージを受けている。飲食物を扱う以上、どれだけ対策をしたとしても、来てくれる人の不安感を完全に拭い去るのは難しい。死なない編集部が拠点にしている西日暮里の「屋上」という店も、飲食の通常営業はしばらくお休みということにしている。
しかしお客さんが来てくれないと、飲食店は立ち行かなくなってしまう。いくら多くの人から愛されているお店でも、お客さんが注文してくれない以上は収入を得ることができない。
そんな中で、飲食業界に「回数券」の仕組みを取り入れ、この状況を少しでも良くできるのではないかと試みている人たちがいる。

「Ticketime」は登録した飲食店がスマートフォンで回数券を発行できるサービスだ。
収益を来店客に頼る店舗型ビジネスでは、疫病をはじめ、地震などの災害や公害で来店することが困難な状態になると収入が断たれてしまう。しかし、「Ticketime」を利用すると、飲食店はお店に来店してもらう前に利益を得ることができ、キャッシュフローの改善につながる。
お客さんにとっては、回数券によって少しお得にサービスを受けられたり、来店が難しい時でもチケットを購入することで、好きなお店を応援できるといったメリットがある。
現在ベータ版の開発中。2020年4月リリース予定。

◎話を聞いた人
古庄伸吾さん(PREO DESIGN代表)

https://preodesign.com/

Ticketimeリリースまでの流れ

高校を卒業してから30代でデザインの会社を立ち上げるまで、ずっと飲食の業界で働いていました。21歳の時にカフェを開業して5年間くらいお店を経営したり、その後は農業をやったりだとか、食に関わる仕事をずっと続けてきて。一方で、飲食店の利益率の低さや、時期によってキャッシュフローがうまく回らないといった経営上の難しさは、自分も経験していますし、同業者を見ていても課題意識としてずっと持っていました。
ただ客単価をあげればいいという話でもなく、キャッシュを得るための仕組みから変えていかないと根本的な問題は解決しない。そんなことを考えている時にアイデアとして出てきたのが食券のシステムです。といっても、本業をやりながらなので最近まではアイデアの段階からほぼ手付かずで。今回の新型コロナウイルス感染症による飲食店の悲痛なメッセージを受けて、予定を前倒しにしてリリースに向け、本格的に動き出しました。

今後の展望

飲食店が苦しい状況にある原因の一つが、常連のお客さんを作る難しさです。
来店するお客さんのうち、いわゆる常連になってくれるのは0.2パーセントというデータがあります。1000人のお客さんのうち2人しか常連さんがいないと考えるととても少ないですよね。
Ticketimeで気軽に回数券を買えるようになると、複数回来店してくれるようになります。そうすると、その後もお店のファンとして通ってくれる確率はどんどんあがっていって、飲食店の売り上げにつながると考えています。

4月にリリースを予定しているベータ版は機能を絞ったウェブサービスとしてのリリースですが、その後はios、アンドロイドのネイティブアプリを作って、より使いやすい形にしていく予定です。あと、まだ公表できる段階ではないですが、Ticketimeの他にも、飲食業界の収益構造にアプローチしつつお店のファンを増やすサービスを考えています。
食を通して素敵な時間を提供してくれている人たちに対して、自分のできることでお手伝いしたいなという気持ちが強いですね。

チャットで参加できる歌会「屋上と短歌06オンライン」

死なない編集部が拠点にしている「屋上」では、2020年3月中旬現在、店舗で開催予定だったイベントを無観客のオンライン形式に切り替え、YouTube Liveで配信している。

2ヶ月に一度開催している歌会のイベント「屋上と短歌」の6回目は2月末日に開催予定だったこともあり、急いで配信環境を整えて「オンライン歌会」に形式を変更して開催した。

司会、参加者、オーディエンスが店に集まり、飲み物や食べ物を手にそれぞれの短歌について一首ずつコメントし合うのが通常どおりの開催形式。
今回は、音声による司会進行のもと、参加者はLINEオープンチャット上で、オーディエンスは配信中のYouTubeLiveにコメントすることで参加し、その状況を配信する形式をとった。

◎話を聞いた人
山階基さん(短歌作家)

https://note.com/chikaiuchini/n/nf9a3b10cccf1/

短歌界の状況

歌会は基本的に少人数で開催するものなので、個人主催のものは手洗い等の感染予防を励行した上で開催されているようですが、出版社主催のトークイベントや刊行記念のサイン会といった大きめのイベントは軒並み中止か延期になっていますね。
歌集の批評会という、パネリストを立てる読書会のようなイベントも結構中止になっていて、すこし先の、5月くらいのイベントも怪しくなってきています。
中止や延期もあり得た状況下で、(「屋上と短歌06」を)開催できたのが何より良かったです。

文字でのやりとりで失われるもの、文字でのやりとりだからこそ生まれる楽しさ

従来の歌会と最も違ったところは、発言が必ず司会を経由するところだったと思います。
今回の配信方式だと、ラジオ番組に例えると、一首の歌を扱うコーナーがあって、そこに来たお便りを紹介していくようなスタイルになりますよね。
参加者その人の言葉が声になって行き交うことが起こらない。
歌会での発言において、重きをおくのが意味内容だけだったら今回の配信方式で十分でしたが、表情や息遣いなどは全てカットされてしまう方式ではありましたね。

喋るのと文字入力だと、使う頭が違うというか。
発言とは言いますけど、文字を打ち込んでエンターキーを押すまでの間に、一旦自分で読み直して文字情報として整理できるのはすごく良いと同時に、多少時間がかかる。
だから、パッと喋るときのライブ感のようなものは減るのかなと思いました。

でも、それが歌会にどうしても必要かと言われたら、もしかしたら要らないのかも。
面と向かってやりとりしないからこその楽しさみたいなものはあったかもしれませんね。

集まって行う歌会は、全員対面なので口火を切るのを遠慮したりしてしまうことがあります。その点、チャット形式だと、発言のタイミングを選ばなくて良いのが面白かったところですね。
集まって話すのと違って、ほぼ同時に発言しても、声が重なって聞き取りづらいということもない。
過去の発言をいつでも遡って拾えるし、順序に制約が少ないというのはかなり良い点だなと思いました。司会が交通整理をすれば、ほぼ問題なく進行できたように思います。

オンライン歌会の可能性

今回のような、喋るのは司会のみ、参加者はチャットという形式は初めてでしたが、歌会の様子を中継する配信には参加したことがありました。
だから、配信という方法それ自体についてよりは、公開されることで、歌会に持ち寄った短歌が未発表扱いにならず、それで遠慮してしまう人がいるかもしれないなというのが心配でした。出した作品が既発表扱いになる歌会はほとんどないですし、コンテスト等に応募するときに「未発表作品に限る」という条件があることが多いので。

僕はLINEのやりとりはプライベートなものというイメージがあるんですが、LINEの画面だからこその身近さ、親近感みたいなものがあったかもしれないです。
それを皆で見ているというのは不思議な感じでしたね。

それから、オンラインだと、参加にあたって「自分の短歌を携えて行くぜ!」と意気込まないといけない感じがうすくなるのかもしれません。
良くも悪くもそういうハードルの高さが歌会にはあると思うので、今回の形式ならば参加しやすいという人も多いかもしれないですね。
物理的な空間の制限がないから、参加できる人数も増やせるし、オーディエンスに至っては何人いても大丈夫。それから、普段の「屋上と短歌」には参加が難しい、遠くに住んでいる人も参加できますよね。

次の「屋上と短歌07」の開催は4月の予定ですが、まだ屋上に集まるというのは難しいかもしれない。
もし今回と同じように開催するとして、募集の段階から配信形式でやるという方針を示しておけば、作品が未発表扱いにならなくなってしまうこともあらかじめ考慮できますよね。
配信元に数人いれば開催できるので、みんなで集まらなくてもできるというのがわかったのは大きい収穫じゃないかなと思います。

選択肢の間を想像すること

新型コロナウイルス感染症の影響で、多くのイベント、展示、集まり、営業などが中止または延期をするか、対策を講じた上で決行するか、といった選択を迫られている。

2020年3月現在、大規模な催しについての自粛要請を出した政府からは、しかしながら明確な判断基準などは公表されておらず、またあくまで「要請」なので中止や延期をするにしても決行するにしても自己責任ということになってしまう状況がある。この状況下では、どんな選択も決して簡単なことではない。中止にしても決行にしても、どちらも本当に難しい決断にならざるを得ない。

しかしこんな状況だからこそ、中止もしくは延期/決行という2つだけではない、その間にあり得る選択について想像することには、少なからぬ意味があるように思う。必ずしもそうした選択をとることのできるものばかりではないだろうし、今回取材させてもらった人たちのやり方が、そっくりそのまま他のものにも転用できるとは思えない。しかし今回の取材で知ることのできたやり方は、この「集まれない」世界で生き抜いていくための、AかBかという選択肢の間を考えるための豊かな想像力を与えてくれるように思う。

新型コロナウイルス感染症がいつ収束するのかはわからない。一ヶ月後かもしれないし、何年もかかるかもしれない。収束したとしても、またなにかの要因で集まることが難しくなってしまうようなことが起こってしまう可能性もある。それでも、そんなときこそ、選択肢の間を模索する想像力を大事にしていたいと思う。文化的に死なないために。