「価値」の不確かさに向き合う
幼稚園児や小学生にとってシール交換は「価値」の不確かさに初めて正面から向き合う機会だったのではないだろうか。私はそうだった。
シール交換のルールは簡単だ。お互いの同意の上、自分のシールを相手にあげて相手のシールをもらう、それだけだ。その際、シールの大きさやかわいさ、ラメが入っているかやぷくぷくしているかによってシールの価値づけが行われる。この価値づけに基準は無く、個人の趣味や思い入れや愛着によって価値は揺れ続ける。シール交換は互いの価値づけを推し量り合う心理戦でもあるのだ。
幼い私はよりよいシール帳を作り上げるため、かわいいシールや創意工夫に溢れたシールをおねだりしたり、なけなしのお小遣いで買い集めていた。しかし、シール交換の流行が廃れるにしたがって私のシールへの想いも薄れていった。
すくすく育った私は大学進学のために上京することになった。寮の抽選には落ちて(クソ〜!)、急いで決めた下宿先の自分の部屋がとても狭いことがわかっていたので、何を持っていって何を処分すべきか、実家にある私のもの全てと向き合うことになった。その際、勉強机の奥底から久しぶりにシール帳が出てきた。そのシール帳は小学生の時にラジオ体操の皆勤賞でもらったもので、中には英会話教室で正解した時にもらったシールなどが貼ってあった。私はなんとなくそのシール帳も一緒に上京させることに決めた。
この世はシールに満ち溢れている
あんまり健康にはよろしくないのだろうけど、上京してからコンビニでおにぎりを買うことが増えた。私はツナマヨおにぎりが大好きで、頻繁にマイナーチェンジが行われるコンビニのツナマヨおにぎりの原材料表示を見るのが趣味だ。趣味とは言いつつ記録をとるわけでもなく、和風ツナマヨのツナはやっぱ鰹が主流なんだな〜とか食べながら思うくらいのものであった。
ある日、そのおにぎりの原材料表示がシールであることに気づいた。手元に糊やテープがなくてもそのままスクラップできるのである! よく考えてみればおにぎりを入れてもらった袋をとめるテープもシールである。割引きシールも文字通りシールだし、そういえばあらゆるパッケージにシールはつきものだ。私が考えている以上にこの世はシールに満ち溢れているのである。
それからというもの、シール帳を充実させるべく、遠出したらお土産屋さんでご当地のシールを見るようになった。そして気が向いたときには広義のシールをシール帳にコレクションするようになった。原材料表示をはじめ、卵ひとつひとつに貼られた賞味期限シール、飲食店で配られたり売られたりしているステッカー、注射の止血用に貼られるやつとか。シール帳を持っているだけでこの世の広義のシールと目が合うようになった。
交換で秩序をぶち壊すこと
シールを貼っていくにつれて、シール帳は自分のアーカイブとして機能しはじめた。自分のシール帳は自分が居たことで残ることになったものの集積である。それを見返すことは惚れ惚れと悦に浸れて良いものなのだが、この秩序をシール交換によってぶち壊すことがシール集めの魅力なのではないかと感じ始めている。自分だけの集積に思わぬ介入が発生することで、シール帳は単なる私の歴史から私を起因とする生態系に変容するのではないか。
しかし、私の周囲にシール帳を所持している人はいない。昨今の情勢的にSNSなどで声をかけて気軽にシール交換会を催すこともできない。
もし、いつか気軽に会えるようになったとき、私とシール交換したいと思ってくださる方がいらっしゃれば、今日からシール帳生活を始めていただければ幸いです。その日が来ることを心待ちに私も邁進します。